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[お知らせ] [跡部蛮 歴史]

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黒田如水「天下取りの野望」の謎(最終回) [黒田如水]

関ヶ原で西軍が大敗し、天下分け目の決着がついたという知らせが如水の耳に達したのは、豊後の諸城を攻めていたときです。

天下大乱の隙に乗じ、豊臣の天下を横取りしようとする如水の野望は、この時点で潰えたことになります。ところが、如水はなおも、軍を筑前・筑後、さらには肥後へと進めています。なぜなのでしょうか。

その筑前への進軍は、家康の指示であったと考えられます。なぜなら、家康の重臣・井伊直政から如水に宛てた書状に、そのことを窺わせる記述があるからです。

さらに決定的なのは、まだ如水が関ヶ原の結果を知る前から、長政(如水の嫡男)への恩賞とは別に、家康へ「このたび切り取り候分」を領有したいという旨を述べ、のちに了承されていることです。

つまり、如水の軍事行動は、東軍と歩調を合わせ、九州で可能なだけ西軍方の領地を奪うことを家康に願い出て、了承された結果ということになります。如水の行動は、徳川政権下における“大大名”の地位を狙ったものだったのです。

如水は、秀吉の生前その才を恐れられ、わずかに豊前中津12万石しか与えらませんでした。才と功績に見合った恩賞を得られなかった如水は忸怩たる思いだったでしょう。

したがって、九州での領地拡大は、彼の”ささやかな野望”だったといえます。

しかし、家康は嫡男の長政には筑前52万石(福岡藩)の大封を与えながら、如水の約束はすべて反故にします。やはり家康も、如水の力を恐れたのでしょう。

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黒田如水「天下取りの野望」の謎④ [黒田如水]

如水が中央の混乱に乗じて天下を奪い取ろうとした話は、『常山紀談』などの非公式な史料が主な出典です。

黒田家の正史ともいえる『黒田家譜』には、九州の兵を率いて京へ攻め上ると書かれてはいるものの、それは「家康公へ忠節を尽さん」がためと明言されています。

あくまで”徳川のため”であって、”おのれの野望のため”ではありません。

もちろん、徳川の世になってから、さすがに藩祖(如水)が徳川の天下を横取りしようとしていたとは書けないから、事実を隠ぺいしたともいえます。

しかしながら、徳川家康から如水へ宛てた書状に「たびたび注進の旨、その意を得候」とあるのはどう理解したらいいでしょうか。この書状から、如水は九州平定戦の渦中、再三家康へ戦況報告していたことがわかります。

実は、大友義統が石垣原で如水に敗れ、降伏したのが9月15日。まさに関ヶ原で天下分け目の決着がついた日でした。如水がこの事実を知るのはまだ、豊後の諸城を攻めていたとき。ここで天下大乱は収束し、如水の野望も潰えているはずです。

ところが、如水はその後もなお、軍を進めています。それはなぜだったのでしょうか。
(つづく)

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黒田如水「天下取りの野望」の謎③ [黒田如水]

如水が石垣原(いしがきばる)で大友軍を破ったことにより、一気に九州の情勢は黒田軍に傾きます。石垣原の合戦が”九州の関ヶ原”と呼ばれる所以です。

そこで一転、北進を始めた如水は、豊後の諸城を攻め落とし、本国の豊前・中津を素通りして、同じく豊前・小倉城(城主は毛利勝信)を開城させました。このとき、黒田勢は1万3000に膨れ上がっています。これは、如水が降伏した兵を召し抱え、靡下に組み入れたためでした。

小倉を落とした如水は、筑前・筑後の諸城を落城させ、そして清正らと共に肥後の水俣へと南進します。九州制覇の野望はもうすぐそこまで来ていました。島津さえ倒せば、その野望が達成されるからです。

ところが、薩摩国境を目指す如水は、水俣で東軍の総大将・徳川家康から

「(関ヶ原に勝利し)今は残りなく天下一統になりゆくなれば、急ぎ帰陣あるべき」(『黒田如水記』)

という停戦命令を受けます。薩摩の島津義久が徳川に恭順の意を示したからでした。

この少し先の話です。如水の嫡男長政は、関ヶ原で小早川秀秋を東軍に寝返らせる勲功をあげますが、その長政が帰国したときの有名な逸話です。

家康が長政の勲功に感激し、その右手を握りしめて感謝したという話を、自慢げに如水に話しましました。すると如水は、「そのとき、左の手は何をしておった」といいます。つまり、なぜ左手で家康を刺し殺さなかったといいたかったのでしょう。

如水が期待した天下大乱が予想以上に早く収束したため、天下取りを逃したという悔しさが滲み出る逸話ですが、そもそも、如水は天下取りの野望を抱いていたのでしょうか。
(つづく)

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黒田如水「天下取りの野望」の謎② [黒田如水]

如水の天下取りにとって、まず九州平定が欠かせない条件でした。

そこで如水は、肥後の加藤清正(東軍)と連携し、細川忠興(東軍)が飛び地として預かる豊後・杵築城の城代・松井康之(細川家重臣)らを味方に引き入れました。

一方、九州には小早川秀秋(筑後・名島城主)や立花宗茂(同・柳川城主)ら西軍に属する諸将の領地が多く、しかも、城主は軍勢を引き連れ、中央へ出陣中です。如水は、おのれの智謀をもってすれば、“空き巣働き”同然に九州を平定するのは、たやすいことだと考えていたのでしょう。

ところが、如水は中央へ出陣中の嫡男長政から中津城の留守を預かる身。長政は大勢の家臣を引き連れ、徳川家康率いる東軍に従軍していました。したがって本拠の豊前中津城に居残る兵はわずか。しかし、如水は早くから天下大乱を予見し、準備を怠っていませんでした。

まず、人から吝嗇(ケチ)との誹りを受けながらも城内に金銀を蓄え、そのカネで浪人らをかき集めたのです。その数、「都合三千六百餘人」(『黒田家譜』)と記されています。

さらに如水は大坂・鞆ノ津(広島福山市)・上ノ関(山口県上関町)に早船を置き、上方の情勢をリレー方式で本国豊前まで伝える体制を整えました。

そのため如水は西軍の石田三成挙兵の情報をいち早く手に入れ、慶長5年(1600)の9月9日、およそ9000の軍勢で、まずは大友勢に包囲された豊後・杵築城の救援へと向かいます。

豊後の旧国主・大友義統はかつて秀吉の逆鱗に触れ、領地を召し上げられましたが、三成サイドから銀子や武器・甲冑・馬などを与えられ、軍勢を募って旧領回復に燃えていたのです。

しかし、黒田勢が杵築城の救援に馳せ参じるや、大友方は囲みを解いて退却し、石垣原(いしがきばる)(別府市)において、如水は大友軍を打破るのです。
(つづく)

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黒田如水「天下取りの野望」の謎① [黒田如水]

黒田如水(官兵衛)はご存じ、竹中半兵衛と共に豊臣秀吉の軍師として、その天下取りに貢献しました。

しかし、秀吉は如水の才を恐れ、豊前中津でわずかに12万石しか与えませんでした。如水としては忸怩たる思いがあったのでしょう。

秀吉逝去後、天下はふたたび乱れ、群雄が東西両軍にわかれて一色即発の危機を迎えます。如水はその風雲に乗じて、天下を我がものにしようとしたと伝えられています。これもまた、関ヶ原の合戦における謎のひとつです。

本当に如水は天下を取ろうとしたのでしょうか。

『常山紀談』によると、如水は嫡男の長政に、

「我は無双の博打の上手なり。筑紫(九州)より攻登り、勝相撲に入りて日本を掌の中に握らんと思ひたりき」

と語ったといいます。つまり、東軍か西軍、関ヶ原で勝った側を叩きのめし、漁夫の利を得て天下を掌中にする算段だったというのです。

 『黒田家譜』には、その具体的なシナリオまで書かれています。

まず如水は九州を平定し、その兵をもって中国の毛利・宇喜多領を席巻。播州の室ノ津(たつの市)で兵船を仕立てて姫路へ押し寄せるというシナリオです。姫路は如水が秀吉に仕える前の旧領。ふたたび姫路を拠点に、京を押さえる作戦だったというのですが…。
(つづく)

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関ヶ原の退き口(最終回) [島津義弘]

島津勢の「敵陣中央突破」という奇跡の謎を解き明かすヒントとして、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました。

関東の軍兵、左右にわかれ、敗軍を追ふて伊吹山に赴く」

島津が正面の東軍方(敵陣)へ斬り込んだあとの描写です。つまり東軍は、伊吹山山麓の北国脇往還方面へ逃げた石田三成・小西行長勢を追うことに夢中で、正面から突撃してくる島津勢を半ば無視していることがわかります。

次いで島津勢は福島正則の軍勢に遭遇します。しかしそのときも、

「正則戦ひを挑まず、故に正則が屯(陣)の前路を横にすぎて本道に突出」(『同』)

おそらく正則は朝鮮でみせた義弘の勇猛さを惜しみ、道を開けたのでしょう。

井伊直政のように執拗に追撃する部隊はあったものの、こうして島津勢は南宮山の麓まで逃げのびることができました。

そこには、同じく“逃げ遅れ組”の長束正家(なつか・まさいえ)や土佐の長宗我部盛親が布陣していました。ところが彼らは、島津勢に伊勢街道への道を譲るばかりか、関ヶ原から比較的近い近江水口城主の正家に至っては、道案内の兵まで貸し与えています。

もちろん、島津兵の勇猛果敢さによるところは大きかったと思いますが、東西両軍から義弘の武勇を惜しまれたこと、そして、東軍諸隊が三成や行長らの首を得ることに執心したことが、奇跡をもたらした大きな要因だったのではないでしょうか。
(つづく)

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関ヶ原の退き口③ [島津義弘]

伏見で本国薩摩へ軍勢催促した義弘は兄義久らに断られてしまいますが、そのあと“奇跡”が起こります。本国薩摩から続々と上方へ島津兵が終結するのです。

史料で確認できるだけでも約400名が薩摩・大隅から上方へはせ参じています。それをテーマにしたのが池宮彰一郎氏の小説『島津奔る』でした。

上方駐留の島津勢は1100程度でしたから、その4割近くの兵が本国からはせ参じたことになっています。いったいなぜなのでしょうか。

豊臣秀吉が朝鮮へ出兵したとき(文禄・慶長の役)の話です。島津勢が籠る泗川(しせん)の城に20万の明軍が攻め寄せます。ところが、『征韓録』には、義弘は、その雲霞のごとく大軍を蹴散らし、逆に敵の首3万8717を討ち取って明軍から「鬼の石曼子(しまんず)」といって恐れられたと書かれています。

島津の将兵はその義弘の武勇を慕っていたのです。

しかし、それでも伏見の島津勢は、1500にしかなりません。はじめ、義弘は東軍へ加わる予定でしたが、兄義久の愛娘(義弘の嫡男家久の正妻)らを大坂城で人質に取られている以上、西軍に与するしかありません。

「義弘、やむことをえず。ついに三成が催促に応ず」と『維新公関原御合戦記』にあります。

そして合戦の当日、逃げ遅れた島津勢は敵陣突破という奇跡を起こすのですが、それは、どのようにして可能となったのでしょう。

命を捨てた島津兵の勇猛果敢さはむろんのことですが、『維新公関原御合戦記』の次のくだりに注目しました…。
(つづく)

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関ヶ原の退き口② [島津義弘]

島津の兵が退路を断たれ、義弘は全軍に前代未聞の敵陣中央突破による退却を命じました。

敵陣へ向けて悲壮な覚悟の島津勢は突入を敢行します。その島津兵は雑兵のみならず、諸士全員が鉄砲を使います。しかし、鉄砲の引き金は1度引けても、2度引けない大混戦。義弘もさすがに死を覚悟しました。

そのとき、甥の豊久が「国家(薩摩)の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」(『維新公関原御合戦記』)といい、殿軍(しんがり)を引き受け、重臣の長寿院盛淳(ちょうじゅいん・せいじゅん)が義弘の影武者となって、2人とも壮烈な戦死を遂げます。

こうして東軍の追撃を振り払い、義弘は伊勢街道を南下。鈴鹿山中の駒野峠に差しかかったのが、9月15日、合戦当夜の10時ごろ。近江の信楽へ出て大和国経由で17日の夜、摂津の平野(ひらの)に到着します。

このとき義弘に従う将兵の数は、わずか80余名になっていました。

その後、堺から船に乗り、兵庫沖で大坂城から脱出してきた女たちの船と合流して日向に上陸。あとは陸路、薩摩へ帰国しました。生き残った者、わずか80余名といえども、小勢で敵陣を突破し、生きて故郷の地を踏むのですから、まさに奇跡といえます。

なぜ奇跡は起きたのでしょうか――。

関ヶ原で東西両軍が激突する少し前から話を振り返りましょう。

合戦の直前、伏見に駐留していた義弘は、薩摩にいる兄の義久らに軍勢を催促するものの、ことごとく断られてしまいます。当時、国元で叛乱が起き、上方に軍勢を急派する余裕がなかったからです。しかし、このときも”奇跡”が起きます…。
(つづく)


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関ヶ原の退き口① [島津義弘]

NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で関ヶ原の合戦をどう描くか期待していましたが、やはり3姉妹を主人公にした関係ためなのでしょう。大津城攻防戦や徳川秀忠の話に話題をさいていました。やや物足りなさを感じた方もおられたのではないでしょうか。

そこで本ブログにおいて、関ヶ原の合戦の名シーンにまつわる謎を皆さんと一緒に解き明かしていきたいと思います。

関ヶ原の合戦の謎のひとつに、「関ヶ原の退(の)き口」と後世にまで讃えられた退却戦がありました。

16万の大軍勢が会した関ヶ原で“奇跡”を起こした事蹟の主役は、わずか1500の小勢。その大将・島津義弘(号して維新)は前代未聞の「敵陣中央突破」を敢行します。

島津勢は、石田三成隊の右、小西行長隊の左に布陣。それまで優勢だった西軍が小早川秀秋の裏切りで大壊走をはじめると、大軍を擁する左右両隊の将兵がわれ先にと、畿内・西国方面へ通じる街道(北国脇往還)へと向かいます。

「後陣甚だ騒動す」

と『維新公関原御合戦記』に書かれています。

つまり、島津勢は逃げ遅れ、退路を味方の敗残兵にふさがれたのです。逃げ道は中山道方面か、伊勢街道方面しかありません。いずれも東軍の敵中を突破する必要があります。

そのとき義弘は「刀の鞘の蛭巻(金属製の装飾品)も捨てよ」(『同』)と全軍に命じます。

こうして義弘は全軍に軽装を命じ、こうして前代未聞の退却戦が幕を開けるのです…。
(つづく)

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